逗子町独立運動


23日、逗子市の亀井児童公園で行われた「逗子町独立運動顕彰碑」除幕式に参加しました。
逗子市は、昭和18年太平洋戦争のさなか横須賀海軍司令部の命に従って、
三浦郡逗子町から横須賀市に強制合併させられた歴史があります。
当時の逗子町池子には、東洋一と称されていた日本海軍の大火薬庫があり、
この火薬庫が横浜市・横須賀市・逗子町と三市町にまたがっている為、軍は指令を発するにあたり一つの自治体に
指令すれば済むようにしたいと言う思惑があり強制合併させられたと聞いています。

海軍の拠点である横須賀市に強制合併させられた逗子町では、戦後も食料や物資の配給が行き届かず、
逗子町民の生活は混乱を極めていたそうです。
その様な中「横須賀から独立し、自分たちで逗子町を立て直そう」と多くの若手有志立ち上がり、
昭和24年11月に「逗子独立期成同盟会」が発足しました。

逗子町の独立には、「住民投票」を実施するために必要な選挙有権者三分の一の署名集め(6646人以上)を一ケ月以内に完了させ、住民投票で分離独立を勝ち取り、県議会の承認を得ると言う手続きが必要です。
当時約40人で組織されていた逗子文化青年団が主催した、「逗子の分離は是か非か」という会では、約40名の現職・元職の各級議員を集め、意見発表を求めたところほとんどの方は時期尚早や分離反対の意見を表明したそうです。
その理由のほとんどは、財政規模の大きい横須賀と一緒の方が逗子は豊かになるという事だったそうです。
独立に向けた署名運動は、思うように進まず、理解を得るために「逗子独立運動白書並びに趣意書」を作成し、
各戸を回ったそうです。
主意書によると、当時の横須賀市は予算の四分の一を起債(借金)に頼っており、逗子町の財政は黒字運営されていたとあります。主意書には、「逗子はなぜ横須賀市から分離した方がよいか」という事が、7点にわけてまとめられています。

1.不合理な合併であり、当時の逗子町会議員及び町民も合併に反対だった。
2.合併条件の不履行(小学校の増築・改築、沼間駅の新設、小坪漁港の築港など)。
3.軍港市横須賀市と住宅都市逗子町の行政背景の違い。
4.同じ市でありながら行政サービスに格差がある。
5.地元のことは、地元住民の意思によって直接決めることが民主的である。
6.財政上の問題。
7.第一回の独立運動について。

以上の事を、パンフレットにまとめ町民に配布もしたとの事です。
逗子市は、住民運動の活発なところであり、逗子市制が始まってからも、市長リコールや議会リーコルなど、住民の直接請求が多数あります。また、市民参加で作成された「まちづくり基本計画」や住民が海や川や里山などを守る「アダプトプログラム」の合意の多さからも自治意識の高さがうかがい知れます。
自分たちのまちは、自分たちで守り育むという「住民自治のDNA」は、昭和24年に発足した逗子独立期成同盟会が産み落としたと考える次第です。

今年は、期成同盟会発足から60年を迎えます。
「逗子独立記念碑を県立する会」の会長である山口茂氏は、期成同盟会の副委員長でもあり、独立運動にも深くかかわった方でもあります。山口会長が、独立記念碑建立にあたり記念発刊した「逗子よ美しくあれ」には、貴重な逗子の歴史が書きつづられています。
この本は非売品ですが、近藤事務所にありますので興味のある方はお立ち寄りください。
昭和25年7月1日に逗子は、横須賀市からの分離独立を実現しました。
「逗子独立期成同盟会」発足60年という節目に、記念碑が建立したことは関係者にとって感慨深いものがあることでしょう。独立運動にかかわった諸先輩方々に敬意を表するとともに、これからも地域主権の確立のために活動する事を約束する次第です。
記念碑建立は、終わりではなく、新たな地域繁栄のためのスタートである事を肝に命じた一日でした。

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